麦兆社は、昭和25年に東京で金子恵泉が「俳句結社麦兆」を結成し、昭和30年に俳誌『麦兆』第一号を創刊しました。爾来年間4回発行の季刊誌として現在に至っています。
平成から令和に年号が新しくなったこの年に、改めて麦兆社の俳句の根本理念は何であるのかを考えてみます。
私は毎年、俳句関係の出版社から麦兆の俳句理念を聞かれた時、次のように答えています。
「誠の俳諧を根幹として、大自然への自己投影を目指す。」
これは、創始者金子恵泉(以下、恵泉と呼称)が生前俳句を作る人に繰り返し唱えていた言葉です。現在も麦兆では、この俳句理念を最も大切にしています。
それでは、この言葉が恵泉の足跡のどこから生まれたものであるか、私なりに考えてみます。
麦兆社「俳句の森」は、平成二年、山口半茶氏の提案によって、師恵泉の屋敷の裏山に第一期の句碑が建立されました。それは、師恵泉の筆によって書かれた俳句を、半茶氏が石の提供と更に句を全て手彫りで完成させたものなのです。その後、三回の句碑建立工事を経て、平成二六年現在、五六基が建立されており、これだけの句碑を一望できる所は日本にもあまりないように思われます。
麦兆の会員の皆様が、この「俳句の森」を俳句の故郷として、更に句作に精進されることを願っております。
また 年間を通して長い間、栃木支部の皆様が「俳句の森」の清掃や維持管理をして頂いていることを、ここに心より感謝申し上げます。
麦兆社
故・金子恵泉(義夫)は、松尾芭蕉の研究者で俳人。
大正元年喜連川小葛城に生まれる。
県師範学校卒業後、黒羽・喜連川の小学校で教鞭をとるが、更なる学問の研究を志し上京、小学校の教員などをしながら日本大学法文学で文学を学ぶ。
昭和24年同大学助教授、同34年同大学教授、以後57年の定年まで、文理学部長事務取扱、日本大学豊山中学・同高校・同女子校の校長などを歴任した。
著書に「正風俳句かるた」、「奥の細道の研究」など。日大名誉教授。
俳人としては昭和30年、俳句結社「麦兆社」を結成し、俳句雑誌「麦兆」を創刊した。
『麦兆社』は、昭和30年(1955年)に故・金子恵泉先生によって結成された俳句結社で、現在もなお活動を行っています。
年月 | 内容 |
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昭和25年(1950年)5月 | 金子恵泉主宰により「俳句同好会」結成(群馬県水上温泉で発会式) |
同7月 | 「夏百句」発行(ガリ版印刷) |
同12月 | 「那勿恥苦吟集」(ななはじくぎんしゅう)発行。(句集名は「那(なんじ)苦吟を恥じること勿かれ」による) |
昭和26年(1951年)11月 | 「霜月集」発行(ガリ版印刷) |
昭和27年(1962年)12月 | 「裸木集」(らぼくしゅう)発行(ガリ版印刷) |
昭和28年(1963年)12月 | 「霜月集」発行(ガリ版印刷) |
その他年次不明であるが、昭和30年までに、句集「雲の峰」「短日」「月見草」「夕涼」「ひさご」などが発行される。 同時期に、俳句結社「麦兆社」創設のための準備に入る。 金子恵泉主幹編「正風俳句かるた」発行(東京教学社) 「題字豊道春海、画江原全秀、かな文字印南渓龍] |
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昭和30年(1955年)7月 | 『麦兆』創刊号発行(非売品) - 作品募集規定(雑詠十句以内、兼題「月」五句以内、俳論・作品批評 - 駿河台出版社印刷(遠藤慶一) - 入会金200円 |
同11月 | 「麦兆第2号」発行(定価60円) |
昭和31年(1956年)12月 | 麦兆第4号発行(1周年期年特集号、定価100円) |
昭和32年(1957年)6月 | 麦兆第5号発行(定価70円) |
昭和33年(1958年)5月 | 麦兆東京大会上野不忍池雀苑亭 37名出席 |
昭和36年(1961年)12月 | 麦兆13号発行 麦兆社忘年句会(艸彩庵 16名出席) |
昭和39年(1964年)8月 | 麦兆17号発行 安行庵訪問(庵主中山昌氏) |
昭和41年(1966年)12月 | 麦兆20号発行 |
昭和42年(1967年)11月 | 昭和42年度秋季大会(小石川後楽園汎徳亭・40名出席) |
昭和43年(1968年)11月 | 下野佐賀観音吟行、深大寺句会 |
昭和48年(1973年)6月 | 麦兆37、38「合併号」発行(はじめての合併号) |
昭和56年(1981年)10月 | 麦兆65、66「合併号」発行 「去来抄抄説」(恵泉主幹)連載開始 |
昭和58年(1983年) | 麦兆73号発行 恵泉主幹 古稀の祝(京王プラザホテル) 事務局喜連川町大字葛城に移る |
昭和62年(1987年)3月?4月 | 中国吟行 |
平成2年(1990年)4月 | 麦兆第100号記念特集号発行 俳句の森完成 |