麦兆社について

麦兆社の俳句理念          主宰:金子如泉

麦兆社は、昭和25年に東京で金子恵泉が「俳句結社麦兆」を結成し、昭和30年に俳誌『麦兆』第一号を創刊しました。爾来年間4回発行の季刊誌として現在に至っています。

平成から令和に年号が新しくなったこの年に、改めて麦兆社の俳句の根本理念は何であるのかを考えてみます。

私は毎年、俳句関係の出版社から麦兆の俳句理念を聞かれた時、次のように答えています。

「誠の俳諧を根幹として、大自然への自己投影を目指す。」

これは、創始者金子恵泉(以下、恵泉と呼称)が生前俳句を作る人に繰り返し唱えていた言葉です。現在も麦兆では、この俳句理念を最も大切にしています。

それでは、この言葉が恵泉の足跡のどこから生まれたものであるか、私なりに考えてみます。

 

1.恵泉と万葉集

恵泉は、戦争に行く時、岩波文庫の『万葉集』上下2冊をポケットに入れて、いつもそれを読んでいたそうです。「石はしる垂水の上の早蕨の萌え出ずる春になりにけるかも」(志賀皇子『万葉集』第一番)この和歌をいつも俳句の源のひとつとしており、会員にもこの歌のように「やさしくすなおなこころ」で俳句を詠みなさいと教えていました。

「令和」という新元号の語源が、「万葉集巻五、大伴旅人の梅の花を詠む序」より引用されたという発表は感慨深いものがありました。日本が元号を日本独自の古典より引用したのは歴史上初めてということです。

 

2.恵泉と古事記・古事記伝

恵泉は研究生活の最初、日本とは何か、日本人とは何か、神とは何かを考察していたそうです。日本独自の神の概念とは何かを「万葉集」のみならず、同じ道を歩んでいた本居宣長の『古事記伝』を初め関連古典書籍から「八百万の神」の存在を理解し、山川草木にも「神」が宿るという上代人の神の概念を把握したそうです。そのいにしえからの思想が、

「自然を師とすれば人自ずから定まる」(恵泉のことば)

という恵泉俳句の原点となったと思われます。また、本居宣長の「敷島の大和こころを人問わば朝日に匂ふ山桜花」という和歌も、日本固有のこころをよく現わしていると思われます。

 

3.恵泉と松尾芭蕉

いつしか恵泉は、『万葉集』や『古事記』の世界にみられる日本固有の精神を最も体現した人物は、松尾芭蕉であるということに辿り着いたそうです。そこから恵泉は、芭蕉を人生の師として深く研究と句作をすることになりました。『奥の細道の研究』を上梓し、文学の博士号(日本大学)を取得し、俳人として、教育者として、また研究者として生涯を送ることになります。

 

4.「麦兆」という結社名に込められた意味

太平洋戦争の敗戦によって、日本が打ちひしがれていた時、荒廃した中から再び立ち上がる意味を込めて「麦兆」と命名したそうです。これは、冬場に麦踏をして踏めば踏むほど麦がよく稔るという作物の特徴に前記の意味を込めたようです。恵泉は、水と土と稲作を大切にしていました。

 

※ごく簡単に師恵泉の足跡を書き出してみました。「俳句とは何か」ということを会員の皆様が知りたくなった時は、『金子恵泉俳句集成』をぜひ繰り返し読んでみてください。拾い読みでも結構掘り出し物がありますよ。私は今でもその中から、俳句のこころを教えてもらっています。

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